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損得なしに付き合え、集える場に


曽我浩新会長

聞き手: 11月6日開催の第25回総会で役員改選が行われ、近畿くすのき会の3代目となる会長に選任されました。 曽我: 初代会長加藤先生、2代目会長村上さんという素晴らしい人の後を受けることのプレッシャーは感じています。 同窓会については、私もそうなのですが、50歳を過ぎてから、大学の同期での集まりが増え、そういう繋がりを求めてきました。同窓というのは、会社の関係とは違って、損得のない付き合い。このくらいの年齢になると、同窓に求めるものが、だんだん増えてくるのかなって思います。40代は仕事が忙しく、「同窓会に出席してよ」と言ってもなかなか難しい。50代をターゲットにしながらも、近畿くすのき会には、なるだけ多くの人に集まってもらえれば、と思っています。 聞き手: 近畿くすのき会との関わりは? 本会に携わるようになったきっかけは何だったのですか。 曽我: 年に1度、市長らも参加して開催している「にいはま倶楽部」という集まりがあって、その会がきっかけになりました。50歳過ぎて参加した時に、近畿くすのき会の村上会長や原田さんも参加。そこで、近畿くすのき会の講演で話してほしいとお話しをいただきました。平成28(2016)年にお酒をテーマに講演してから、本格的にお付き合いするようになりました。総会そのものに出席したことは、ひょっとしたら、それ以前にもあったかもしれませんが、講演を機に幹事としてお手伝いするようになったと記憶しています。 聞き手: そうですか。近畿くすのき会で本格的に活動して5年ですか。これまでの同窓会活動で思い出に残っていることはありますか。 曽我: 日本盛で開催した蔵開きです。近畿くすのき会として出店してもらって、ジャコ天とか、エビ天とかを、皆さんで売ってもらったことは、非常にありがたかった。それが一番よかったなあと思っています。同窓会の一つのつながりが、形として現れたのが感じられ、皆でわいわいと楽しめたのがよかったと思います。 聞き手: ご自身のことを少しお聞きしたいと思います。まず、プロフィールをお話しいただけますか。 曽我: 私は昭和33(1958)年に角野町喜光地で産声を上げて、小、中学校は角野でした。新居浜西高校は昭和52(1977)年に卒業し、大阪大学工学部発酵工学科に入学しました。微生物を使っていろいろなものを生産するバイオ分野を研究しました。遺伝子を調べたりする生物系の学科です。お酒の発酵に関する勉強もしました。学生時代は合唱部にも所属し、今でも、その時のメンバーとのお付き合いがあります。 聞き手: 高校生の時は、どんな西高生でしたか。 曽我: 結構、遊ぶのが好きな生徒で、皆とわいわいするのが好きな生徒でしたね。西高の友達とは今でも付き合いがあり、「にいはま倶楽部」で偶然、再会した友人とは、女子プロのゴルフ観戦に行ったり、お酒を飲んだりして交流しています。 聞き手: 高校時代に思い出に残っていることは何ですか。 曽我: 運動会は、やっぱり素晴らしかったなあと思っています。みんなで桟敷席の絵を描いたり、作ったりしたことが記憶に残っています。面白い運動会だったと思います。 聞き手: 故郷新居浜での思い出で、記憶に残っていることが何でしょうか。 曽我: 僕は角野だったので、やはり煙突山の風景と奥に聳える山々が、今でも瞼に焼き付いています。煙突山では、小学校の時、学校の帰りによく遊びました。種川が綺麗だったことも印象に残っています。種川ではよく泳ぎました。山が近いので、山で遊ぶことが多かったですね。  中学2年か3年かに、別子銅山が閉山になったと記憶しています。父親が発破技士でしたから、閉山になった後、違い場所に移っていったのを覚えています。


第25回総会にて記念撮影する歴代会長の加藤、 村上、曽我氏

聞き手: 少し仕事の話を聞かせてください。日本盛に勤務し、酒造りに長年携わっているとのことですが。 曽我: もともと大学の学科に入ったものそうなのですが、お酒が好きで、そういう会社に入れたらいいなと思っていました。大学の先輩からも声を掛けてもらい、今の会社を受けさせてもらいました。 最初は会社に研究職で入りました。入社後1年半くらいして、東京・滝野川の「醸造試験所」という国の研究機関に移り、1年3カ月ほどお酒の研究をしていました。国税庁の管轄の研究施設で、多くの先生とも顔なじみになりました。将来的にも良いつながりになりました。 阪神大震災のあった平成7(1995)年から、日本酒の製造分野に移り、そこから8年くらい日本酒造りをさせてもらいました。 聞き手: その酒造メーカーで学んだことは何ですか。披露できる体験談があればお願いします。 曽我: 酒屋の技術屋さんって、同業他社とも仲が良いです。たぶん変な業界だと思うのですが(笑)。いまはコロナ禍で自粛していますが、それまでは年に5、6回集まって、お酒を飲んで交流していました。皆さん、飲む量が半端ではない。結構、皆さん、お好きなんですね。ビールメーカーなどは、そうでもないと聞いていますが、酒屋は横のつながりが強いのです。それがとてもありがたかった。面白い業界だと思います。 僕が入社した当時は、杜氏さんが会社にいました。昔の杜氏さんは、人を15人ほど連れて来るんですよ。10月から4月まで、一緒に酒づくりをするわけですが、この人たちの序列がはっきりしているのです。ご飯の時は、杜氏さんが箸をつけるまで、他の人は誰も箸をつけない。お酒も杜氏が飲まないと、他の人も飲まない。結構、規律がしっかりしている。当時の杜氏さんは、すごく威厳がありましたね。 それがだんだん社員でお酒づくりするようになってきました。社員の中で杜氏の資格を取るというように時代も変わってきています。今でも、少しは杜氏がいるのですが。 製造部門に管理職で入った時、初めての仕事は、杜氏から脱却し社員化に移行するにはどうしたらいいのかを考える仕事でした。ちょうど、酒づくりの時代の変わり目でした。平成8(1996)年か平成9(1997)年くらいのことでした。杜氏さんは泊まり込みで酒造りをしていましたが、夜の仕事もどうしたらなくなるのか、しくみを変えました。   聞き手: コロナ禍の影響を受け、総会は2年ぶりの開催となりました。 曽我: コロナ禍の制約の多い中での開催となりましたが、参加いただきました皆さんに喜んでもらえたと思います。やってよかった。徳増先生の講演会もタイムリーでいい講演だったと思います。幹事会の皆さんには、コロナ禍対策を十分に考えてもらい、無事に開催できたことに感謝します。 聞き手: 近畿くすのき会の魅力、良さをどのように感じていますか。 曽我: 同期会がいろいろ集まって、同窓会になると思うんですよね。一番近しいのは同期だと思うのですが、同窓会には、先輩もあり後輩もありですよね。損得なしで付き合える人たちは、ありがたい存在なので、そういう意味での同窓会には魅力がありますね。 聞き手: 最後になりましたが、会長として、これからどんな同窓会にしていこうとお考えですか。 曽我: 今回の総会はコロナ禍の影響で参加が少なかったけれど、コロナが明けたら、皆がそこの場で親交を深められる形がより良いと考えます。村上会長の時も、「西高100周年の時には、100人集めよう」と号令をかけましたが、私の時にも、多くの人が集まる場にはしたいと思います。1年、2年先とかになるかもしれませんが、アフターコロナには多くの人で集まりたいと思っています。                            2021年11月                          (聞き手・文責 入江)